古武術紹介「竹之内流」

竹之内流は戦国時代、天文元年(1532)美作国久米北条郡垪和郷の一の瀬城主竹内中務大輔久盛が創始した古武道。その子竹内常陸介久勝(二代目)、孫竹内加賀介久吉(三代目)が形や秘伝を補って集大成。以降、竹内家が伝承している。

通称「天狗山」山中に本部は位置する。その山腹に城築を思わせる大石垣が構えられ、その上に稽古場と社が位置する。竹内流の道場は築450年の歴史を持ち、現存する道場の中で最も古い道場である。

現所在地 岡山市北区建部町角石谷

捕手腰廻小具足を中核とする数百に及ぶ形や秘伝で構成される総合武術。歴史を遡ることができる最古の日本柔術の流派と言われている。

太刀や小太刀を伴う「捕手腰之廻小具足」、「剣法斉手」をはじめ「抜刀(居合)」、「薙刀術」、「鉄扇の術」、「棒や杖の術」、「羽手(はで)」と呼ばれる「柔術」、柔らの基となる「体術」、「捕縄術」など武芸十八般に及ぶ武術で構成され、その総合的な技術を今に伝えている

作州は古来より武道が盛んであったと云われる一つに、多くの農民武士が存在していた。「作州で棒を振るな」という諺があり、その基になるのが、この戦国時代から総合的な武術を実践されてきた竹内流の存在ではなかろうか。
一例としては、宇喜多家と毛利家が対立していた天正9年(1581)、宇喜多家が所有していた作州では一番大きな岩屋城を、毛利輝元の指令により、正攻法では落とせない状況において、鏡野町を中心とした農民武士32人の斬込隊が編成され、風雨の夜に決行した。本丸北側の断崖(「落とし雪隠」と呼ばれていた)をよじ登り、奇襲をかけ混乱させ、大手門からは、竹内流の武士団他200余騎の軍勢が攻め入り見事に落城させた。毛利輝元はこの32人の勇士に感謝状を送っている。この農民武士たちは、当然竹内流の門下であったと考えられる。 
また、かの有名な剣聖宮本武蔵も若い時に、この竹内流で修業したと伝えられている。

系譜について

「竹内流宗家系譜」       

・竹内中務大輔久盛(流祖)

・竹内常陸介久勝(二代目)

・竹内加賀介久吉(三代目)

・竹内藤一郎久次(四代目)

・竹内藤一郎久政(五代目)

・竹内藤一郎久重(六代目)

・竹内藤一郎久孝(七代目)

・竹内藤一郎久愛(八代目)                 「竹内流相伝家系譜」

・竹内藤一郎久居(九代目)     ・竹内藤十郎久種(九代目)

・竹内藤一郎久雄(十代目)     ・竹内藤十郎久守(十代目)

・竹内藤一郎久則(十一代目)    ・竹内藤十郎久充(十一代目)

・竹内藤一郎久継(十二代目)    ・竹内藤十郎久博(十二代目)

・竹内藤一郎久教(十三代目)    ・竹内藤十郎久武(十三代目)

・竹内藤一郎久宗(十四代目)

※八代目の竹内藤一郎久愛は、子相伝の術技と血脈が絶えるのを防ぐため、一人の子を分家させ二本立て「相伝家」を設けた。

また、多くの武術流派に影響を与えて来た流派であり、多くの分派支流が派生している。竹内畝流、竹内三統流、竹内半官流、風伝流、力信流、難波一甫流、双水執流、呑敵流など。

この作州地域は、戦国時代より山名・赤松の対立、宇喜多・毛利の対立など、常に群雄割拠の戦場と化していた。東西南北の四方より囲まれ、いつ何処から責められるかわからない状況であり、自分や家族の命を守り、生活している地域を守るため、必然的に武術を身に着ける必要があった。この時代背景と地理的な環境条件、そして様々な状況に応じた技を研究し、作り上げていった竹内流の継承・波及により、この作州地域の武道が発展していったと考えられる。

よかったらシェアしてね!